中道農園の歴史

米作り一筋200年。
中道農園は、江戸時代の終わり、享和(きょうわ)から、先祖代々、農家の血を受け継ぎ現在に至ります。
そんな中道農園の歴史をご紹介します。

農家一筋200年

中道農園は、江戸時代の終わり、西暦1800年はじめの享和(きょうわ)時代から続く自作農家です。
当時は、長男が家業を引き継ぐ風習がありましたが、中道家は、長男・次男関係なく、優秀なものが農家を引き継ぐ方針でした。こうして、米づくり一筋にかける農家の血を絶やすことなく、今でも継承しています。

代々受け継がれる農家の血

僕の父、中道登喜造(ときぞう)は、昭和4年に大阪府三番(現在の門真市堂山町)で生まれました。1800年頃から続く農家の次男として誕生した登喜造は、子供の頃から勉強以上に農作業を手伝って育ったそうです。(小学校に馬で通学するという常識はずれな行動をとる人物でした。)

近代的農業に魅了された青年時代

この頃の農家は、牛が田畑を耕していた時代。
そんな中、たまたま出会った雑誌「リーダーズダイジェスト」には、今まででは考えられない農地の作り方が紹介されていました。
「欧米諸国は、ジープで田畑を耕し、ブルドーザーで一夜にして広大な農地を造る」と。

これは言葉を失うくらいの衝撃的な話でしたが、これをキッカケに、登喜造は日本の将来の農業の姿を夢に描いたそうです。しかしこの頃の日本は、戦後でボロボロ。だけど登喜造は、農業への情熱が燃え上がりました。(次男でありながらも・・・)

農業青年活動に力を入れる毎日。そして

そんな登喜造の独身時代は、農業青年活動に力を入れる毎日。仲間と一緒に、将来の農業技術を学び、知識も腕も磨き続けました。

そして昭和31年、農業仲間の妹(節子ばちゃん)と結婚!
節子ばあちゃんの献身的な支えもあり、農業活動にますます加速をつけていきました。

左の写真は、1956年の大阪府門真市月出町で撮影したものだそうです(現在のモノレール門真駅と大日駅の中ほど辺り)。
右の道路は中央環状線近畿自動車道下、後ろに門真市水道局が写っています。
当時は田んぼしかありませんでした。しかし、当時の門真市は急激な都市化により、農地は10年ほどで住宅や工場の中に埋もれる状態となり、理想的な農業が困難に。

1967年、農業の新天地を求めて

そこで登喜造は、農業の新天地を求めて、西日本(三重県から九州宮崎県まで)を数年渡り歩きました。

近代的農業の条件は豊かな水と平野、そして温度。
農地にいい場所を調べる中で、適した場所があるという話を聞けば、すぐにその地を訪れたそうです。

1970年、滋賀県野洲市に移住

探し求めていた新天地を発見。1970年(大阪万国博覧会開催)に、琵琶湖のほとり、現在の滋賀県野洲市に一家そろって移住を決断しました。その後、ひたすらヨーロッパ農業を意識して、米造り農業一筋に取り組んできました。

1973年頃の農園 〜 その後、農薬中毒に

ドイツ製の72馬力のトラクターが頼もしい(牛の変わり?)。
急激な規模拡大が元で、登喜造は農薬中毒に苦しむようになりました。身の安全のために、農薬軽減につながる土造りを基本に、絶えず新技術に取り組んできました。

NHKの「明るい農村」で当園が紹介

NHKの「明るい農村」で、中道農園が紹介されました。「農業は家業なり」。家族が力を合わせ新たな農業へと突き進むという姿を放映いただきました。

1983年、実験と開発を重ねる

農業の基本「土造り」を進める上で、キャタビラ式トラクターを導入。右の写真(フィールドテスト成功時の記念写真)は、北海道の大型畑作用農業機械の水田利用のために、多くの技術者やメーカ設計者の力を結集して開発された1号機です。

効率よく土造りを行うための大型たい肥散布装置も更新導入。

1986年、消費者に直接販売するために

「直接お米を買いたい」という消費者に促されて、1986年より、農林省の「特別栽培米制度」の認可を受け「有機質肥料100%、農薬は除草剤のみ使用」の契約で全国への産直販売を始めました。

無農薬・有機栽培へ

この頃から無農薬・有機栽培に取り組みます。農薬を一切使わない栽培は、虫や雑草の被害などに苦しめられましたが、研究開発の成果もあり、安定して生産できるようになりました。

次のステージ、無施肥・自然栽培へ

2008年から、化学資材はもちろん有機資材も一切施さない無施肥・無肥料の自然栽培を行っています。提供されるのは水と空気だけの田んぼです。

自然界に優しく見守られるように育ったお米は、とても美味しく、自信をもってオススメできるお米になりました。

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