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農園と僕のあゆみ

好きな言葉は「百姓一徹」
頭の構造は単純!「百姓」と「かみさん」だけ!
そんな僕と農園のあゆみを紹介します。

家訓は「百姓一徹」そんな両親の元で育ちました

1958年

僕は大阪府門真市に生まれました。
カエルやザリガニ、空き地でバッタを追いかけ、9才のとき淀川を泳ぎ渡ろうとしておぼれかけたり、近所の小学生にはやんちゃボーズに見えたようです。
一方、家の上には高速道路ができ、夜でも本が読めるほど都会化してしまいました。 田舎が大好きな我が家の家訓は「百姓一徹」。
父は農業の新天地を求め、紀伊半島から九州までを探しまわりました。

1970年(大阪万国博覧会開催)

琵琶湖のほとりの滋賀県野洲(やす)市に移住しました。
この地で驚いたのが、夜は真っ暗!手を伸ばせば星がつかめそうなほどでした。
家の横の日野川では、うなぎ・ナマズも手づかみ。鮎なんかはバケツにいっぱいつかんで、アメ炊き・塩焼きで友達とたべました。うまかったなぁ・・・
そんなわけで 中学時代の成績は落ちる一方!

1974年

長浜市の農業高校に進学。
勉強の成績はさておき、全寮制で規則は厳しい。
そのなかで自由を創り出す生活は、とても楽しかったです。

農薬の怖さに震えた18歳

1977年

勉強嫌いのぼくは、迷わずおやじの下で就農しました。
しかし夏のある日「おやじに異変が!」
ブルドーザーのように、まい進する親父が、高熱を出して寝込んだのです。

「これはヤバイ。」

医者に行けば「体が化学物質を病原菌と勘違いして、熱を上げ退治しようとしている。対処法はない。農薬をさわるな!」と宣告!
農業高校では農薬の利点を教わったが、いきなり怖さを思い知らされることに。

しかし今から30年も昔、無農薬の技術の何もない私たちは、農薬から離れることができませんでした。

1978年

このままでは「親父があぶない」と思い、僕が農薬散布の担当になりました。
最初3年は全く問題なく、おやじの高熱が嘘のようです。

農薬は生命を脅かす薬。僕の体もついに・・・

1982年

このころから、僕も農薬散布後、「頭が痛い、体が重い、朝には手がしびれる」という症状が。このままだったら、「僕も長生きできない」と、強い恐怖を感じたのです。

それからです。
農薬の使用を減らす勉強を真剣にはじめました。
(当時まだ減農薬という言葉はありませんでした。)

農薬はなぜ虫を殺すのか?

なぜ農薬が作物に効き、虫を殺すのか?毒性はどうなのか?
どの基準で国の法律をクリアしているのか?

色々な研究機関や大学にお世話になり、勉強をしました。
その中で、「人間は化学物質を知り尽くした上で使っているから安全だ」と思い込み、勘違いしていることに気が付いたのです。

例えば、「田んぼで使われた農薬は、最後どうなるの?」という問いに、どの研究機関でも「紫外線や微生物で分解され、無害となります。」と言うだけでした。
しかし、20余年もしてから、いくつかの化学物質が分解されず、環境を大きく汚染して大騒ぎをした報道を耳にされたかと思います。(農薬によるダイオキシン汚染や、環境ホルモン問題)

自然の力は偉大。自然や作物に愛されるように—

先進農家に助けを求め、北海道へ

このままでは健康を維持出来ないと感じた僕は、先進農家に助けを求めました。
農薬をたくさん扱う可能性のある大型農家はどうしているのか?
僕は答えを探しに、日本中をまわりました。
そして、北海道の大農場のおじいちゃんに出会ったのです。

自然を味方に出来る農家に

おじいちゃんは、「自然の力、土の力、作物の力を信じ、それを最大限引き出し、丈夫で元気な作物を育て上げなさい!」と。

そして、「農民が作物を愛するだけでは足りない。」
「自然や作物が、農民を愛してくれるようになりなさい。」と教えてくれました。

大切な事は「農業の基本」の中にあったのです。
これ以降、迷うことなく自然を味方に出来る農家になるように、と努力してきました。

農薬を減らした農法で、お客様からも支持されるように

1989年

化学物質による体の異常を訴える人々から、口コミで「中道さんのお米は農薬が少ない」と噂が広がり、お客さんが農園に訪れるようになりました。

1990年

農林省許可「特別栽培米制度」により、お米の産地直送販売を始めました。自分のために進めてきた農薬を減らす農業でしたが、お客様にも応援していただける大変ありがたい立場になりました。

親父死去。1億5千万円の借金!

1996年

親父死去。米価が下がり続け、ただでさえも経営が厳しい時代に、億単位の桁外れの借金からの再スタートとなりました。

しかし、一方で新たな出会いもありました。
消費者を中心に生産者やお米屋さんも集う「お米の勉強会」世話人、村山日南子さん、さらに栃木県「成苗二本植研究会」稲葉光圀先生(今の民間稲作研究所)と出会いました。
この出会いが「無農薬有機栽培の世界」の大きさに魅せられにるきっかけなりました。

無農薬のハードルの高さに苦悩

1997~2000年

「クサ くさ 草 ・・・・・」
僕の無農薬の田んぼは、見るも無残な姿。
減農薬栽培を続けてきたとはいえ、無農薬栽培のハードルは大変高く、先生や先輩から教わった事がなかなか再現できないのです。
「実力の差」ってやつですなぁ。

数年にわたり全く採算が取れず、おまけに普通栽培の田んぼまで手が行き届かなくて、収量を大きく落としてしまいました。これが経営を大きく圧迫し、家族の理解も得られなくなり、精神的にも苦悩の連続が始まったのです。
当然、借金を返すどころではありませんでした。

アイガモ君の協力、JAS有機栽培認証取得へ

1998年

「情報提供ツール」として、ホームページを設置。
来園できない遠方のお客様向けに、農園や作業風景の写真などを載せたものを配信しました。

1999年

平成11年にアイガモ君の協力を得て、完全無農薬のお米を収穫!
採算は全く取れていませんが、初めて「草だらけ」の中から、お米をお客様に提供しました。

2000年

平成12年に、JAS有機認証を取得しました。
また、やっと収量が少し安定。将来に光が見え始めました。
一方、お米の自由販売が各農家さんに普及し、減農薬栽培米の売り上げが悪化。いままでのお米では経営が成り立たなくなってきました。

無農薬のお米が大人気!

2001年

検索エンジンYahoo! に登録と共に、少しづつですが無農薬米が売れ始めました。

2002年

大口の業者間取引の「取り込み詐欺」の被害が仲間農家の中でも発生。それを回避するため、現金取引を強引に進めましたが、新たな契約が成り立たなくなました。そこで僕たちは、BtoC(消費者へ直接販売)に力を入れはじめました。

発芽玄米、発芽まえちゃん玄米の商品化

2003年

オリジナル開発の精密除草機で、生産現場は楽になりました。
ネット販売では、JAS有機米だけが右肩上がりです。
また、安全で食べやすい玄米、「発芽まえちゃん」が、お客様のご協力もあり、商品化ができました。

2004年

「発芽まえちゃん玄米」の商品化後、新聞雑誌で取り上げられて、売れ行きは好調。
しかし、それ以上に有機栽培米の生産量を増やし過ぎて、苦労して育てた無農薬のお米が余ってしまい、たいへん辛い思いをしました。

2005年

新たな無農薬栽培技術が軌道に乗り、業界誌にも技術情報として大きく紹介していただきました。
玄米食ブームで「発芽まえちゃん玄米」の売り上げは、さらに順調です。

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